2011年09月28日

小さな窓

                   小さな窓                

朝はいつものようにやって来た。どこにいて何をしていても必ず朝になる。
正樹は真っ白い壁に囲まれた部屋のベッドの上で二十三歳になった。正樹のベッドは東向きの部屋の窓際にあって朝日がまぶしい。どうして遮光カーテンにしないのかとそれが不満だ。窓際はうれしいが朝日は勘弁してもらいたい。別に眠っていたいわけではない。ただ朝を感じたくないだけだ。
 正樹の横にはベッドが四つ並んでいる。向かいには五つ。この部屋には十のベッドが等間隔に並べられ、そこに十人の男が横たわっている。正樹はそのうちの一人だ。起床時間は八時四十五分なのに、正樹はいつも朝日が差し込むのと同時に目が覚める。他の九人は看護師が起しに来るまで目覚める様子はない。それもそうだ、みんな寝るのは深夜二時とか三時で明け方ようやく眠りにつく奴もいる。
 九時になると看護師がふたり入って来て、ふた手に別れてドア側のベッドの奴から検査を始める。検査といっても採血をして血圧を測るだけだ。それが終わると昼食まですることがない。正樹はたいていベッドの上で本を読む。たまに誘われて他の奴らとマージャンをすることもあるがテレビゲームはしない。本を読むのに飽きると、窓から見えるほんの少しの空をぼんやりと眺める。
 今、正樹がしているのは治験というアルバイトだ。これは新薬開発のための人体実験だ。今回は癌の薬の開発ということだった。新薬を飲み、二十日間経過観察をするというだけのことだ。バイト代は四十万円。二十日で四十万は破格の金額だ。しかも一日中ベッドの上でゴロゴロしていればいい。
 この階にある部屋は、病室とトイレと洗面所。それからテレビとまんがの本が置いてある休憩室に看護師の詰め所、そして受付。正樹たちはこの階以外は出入り禁止だ。
 病室のドアは二十四時間開けっ放しで、看護師の座っている受付から室内が見えるようになっている。受付にはふたりの看護師と医者がひとり。時々出入りしている中年の男は製薬会社の社員だろう。
「田村さん、田村正樹さん血圧測りますね」
 看護師の上田京子に声をかけられた。正樹は今目覚めたようなふりをして京子を見た。
「気分はどうですか?」
 正樹は京子の顔を見上げて「ふつうです」と答えた。京子は正樹の腕に血圧計のベルトを巻きつけている。前かがみになった京子の髪が正樹の頬をかすめる。ほのかに甘い香りがする。正樹は目を閉じた。血圧計の電源が入れられて腕に圧力がかかる。ピッピッピッという音と共に血管が浮き上がり、そのあとプシューという音で腕に一気に血液が流れ込んだ。
「一二〇の七五です。いいですね」
 京子はそう言うと、ゆっくりと正樹の腕から血圧計をはずした。
「食事はどうですか? おいしいですか? 田村さんはあまり食べてないみたいですね」
「はあ、なんか食欲がないもんで」
 正樹は採血のために消毒液を塗られている右腕を見ながら答えた。ここに来て今日で八日になる。食事はまずくないどころか病院とは思えないくらい豪華だ。一人暮らしでろくな物を食べていない正樹にとっては願ってもないようなメニューだ。いかんせん毎日食っては寝ているだけなのでたいして腹も減らない。それにしてもほかの奴らはよく食う。今のうちに食いだめをしないと損だというように食いまくっている。これじゃあ病院を出るときにはメタボになってるぞ。
 正樹は自分の血が抜き取られていくのをチラッと見てから京子の顔を見た。三十二歳で雰囲気は中山美穂に似ている。物静かで大人な感じがいい。もうひとりの看護師は二十歳で今年からここの担当になったという。看護師になりたてでこの仕事もどうなんだとは思うが、へたに普通の病院に勤めるよりは、はるかに楽だろう。
 京子は注射針を抜いたところにばんそうこうを貼ると、「それじゃあ」と言って部屋を出て行った。それからは特にやることがない。制約されているのは、この階から無断で移動しないことと、勝手に物を食べないことだけで、あとは何をしていても自由だ。
「おう、やろうぜ」
 隣のベッドの男が勢いのいい声を出した。それに釣られて「今日は負けないぜ」と向かいのベッドの男が答えた。たぶん奴らは隣の休憩室でゲームをするんだ。休憩室には今流行りのゲームが置いてある。ここにないゲームでやりたいものがあるときには、看護師に言うと翌日には届けられてる。本だって読みたい本をリクエストすればすぐに取り寄せてくれる。向かいのベッドの奴がマージャンをやりたいって看護師に言ったら、三時間後には届けられていた。
 とにかくここで時間を潰すための道具なら、たいていの物は手に入る。と言ってもみんな特別に変わったことがしたいわけではなく、適当に暇が潰せればそれでいい。
「占ってやるよ」
 正樹はいきなり声をかけられて振り向いた。後ろに立っていたのは内藤だ。内藤は自称占い師とか言って、頼んでもいないのに誰かれとなく占いをしたがる。
「そんなのいいよ」
 正樹は面倒臭そうに答えた。
「あのさ、ここに来てる奴らにはどんな未来があると思う? 田村くんは自分の未来が知りたくはないの?」
 内藤は正樹の顔に自分の顔を近づけた。
「俺はそんなもんに興味なんてないから、他の奴でも見てやったらいいじゃない」
 正樹は読みかけの文庫本を開いた。それでも内藤は引き下がる様子もなく、正樹のベッドに腰を下ろすと、「生年月日を言って」と、メモ帳を出した。
「僕の四柱推命は本当に当たるよ。何人もの人を救ったんだ。この占いは中国四千年の歴史があって去年勉強しに中国まで行ったんだ」
 内藤の話はどこまでも続きそうだったので、正樹は「一九八七年十一月一二日だよ」と答えた。内藤は「僕より十も下なんだ」と言ったあと推命表なるものを出して熱心に占っている。
 占いなんかで未来が分かったら誰も苦労なんてしやしない。他人を占っている暇があったら自分のことを占ったらいいんだよ。こんなところに来てるくらいだから、あいつの人生だってどうせろくなものじゃない。そうさ、ここに来てる奴らはみんな腐ったかぼちゃみたいなもんなんだ。腐ってなけりゃあ誰が好き好んで人体実験なんて買って出るかよ。正樹はこのバイト得るために受けた面接を思い出していた。

「どうしてこの仕事に応募されたんですか?」
 五十年配の白衣の男に聞かれたので、
「少しでも医療の向上に貢献できたらと思って応募しました。僕の体が役に立って癌で苦しんでいる人を救うことが出来たら僕が存在したことにも価値があると思って」
 と殊勝な顔をして答えた。でもそんなことはどうだっていいんだ。医療の向上だなんて笑わせる。自分はただ楽をして金が欲しかっただけだ。一ヵ月前に派遣会社を辞めて、家賃をどうやって払おうかって困ってた。でも、ハードな仕事はしたくない。一生懸命なんてクソくらえだ。なんか楽して儲かる仕事はないだろうかと思って、ネットで検索したんだ「楽 高収入」って。
 そしたらこの「治験」のバイトがアップされてた。内容を読んだら、新薬を飲んで二十日間、経過観察をするだけというものだったので迷わず飛びついた。応募資格は男で健康であることと病歴がないこと。そして二十日間入院出来ること。さっそく電話をしたら、日にちを指定された。当日、渋谷にある面接会場まで出向いた。街には落ち葉が舞い始めていた。会場には四十人が集まっていた。年齢は二十歳から四十歳くらいまでだろうか。担当者の説明によると、この中からとりあえず十六人が選ばれる。選ばれる基準は何なのかよく分からない。集まってる奴らはみんな健康で暇な奴らのはずだから。
 正樹は第一次の十六人の中に残ることが出来た。選ばれなかった二十四人にはその場で交通費として五千円が渡された。ほんの二時間で五千円、しかも面接を受けただけでもらえるのだからこれだけだっていいバイトだ。翌日が二次面接。尿検査、血圧、採血、そして身長と体重を測って八千円をもらって帰った。採用されるのは十人で結果は三日以内に電話があるという。
三日目の朝、正樹は採用の電話をもらった。
翌日荷物をまとめて、といっても着替えはすべて向こうで用意されているので、いつものジーンズにTシャツ、軽くジャンパーをはおっただけの格好で出かけた。カバンには文庫本を五、六冊放り込んだだけだ。
四谷三丁目にある六階建てのビルは、病院ではなく治験専用の施設ということだ。六階の会議室と書いてある扉を開けると、もうすでに何人かの男たちが座っていた。全員が集まったのは十時半を過ぎた頃だった。白衣を着た男が入ってきて「今からみなさんにこれからのことを説明します」と言って話し始めた。
今日、集まったのは十二人。これからまた検査をして本採用になるのは十人で、落ちた二人はその場で帰る。二人余分に来させたのは、当日ドタキャンをする奴がいたら困るからだという。隣の検査室でまた同じ検査をした。一時間ほど待って本採用の十名が発表された。正樹もその中に入っていてほっとした。これで二十日後には四十万が手に入る。正樹の口元が少しだけゆるんだ。落ちた二人はその場で七万円をもらって帰った。これまた破格な金額だ。
正式に採用が決まった者には誓約書が渡された。そこには面接で説明された内容が細かく書かれている。正樹はテキトーに飛ばし読みをしたが、「万が一、後遺症が残った場合でも一切の異議申し立てはしないこと。もし後遺症が残った場合は生涯当社で責任を持ちます」と書いてあるところで目が止まった。もしこのバイトをしたことで一生が台無しになったらとそう考えたら怖いことだ。だから破格の金額なのだろう。好き好んでこんなバイトをする奴がいるだろうか。後遺症……か、なったらなったときのことだ。生涯面倒をみてくれるのだから別にそれもいいさ。正樹は躊躇したが結局は誓約書に署名捺印した。
十人の男は五階の病室に案内されて、担当の看護師から詳しい説明を受けた。そのあと割り振られたベッドの下に荷物を置いた。今日からここで二十日間、見ず知らずの奴らと過ごす。正樹はどちらかというと人見知りをする方だ。知らない人間に自分から話しかけることなんてほとんどない。人が嫌いというわけではないが、話を合わせたり相槌を打ったりするのは面倒だ。それに正樹の聞きたいような面白い話をする奴なんてまずいない。

「君は晩婚だね」
 その声で正樹は横に内藤がいることに気がついた。そうだった勝手に正樹の占いをしているんだった。
「我が強くて、協調性がなく周りから浮き上がってしまうこともあるね。でも基本的にはいい人だね。金儲けには向かないみたいだよ。あっ、それは僕もだけどね。まあ、お互いこんなところに来てるのがいい証拠だね。だけど食べるのには困らないって出てるよ。」 
 我が強いか、正樹は確かにそうだなと思う。納得しないことはやりたくないし、人に合わせるのも苦手だ。
「で、俺の未来はどうなの?」社交辞令で聞いてみた。
「そうだな、五十を過ぎてから人生は好転するよ。願ったことは簡単に叶えられる、ただ身内に不幸があるかも知れない」
身内の不幸か。正樹の父親は十四年前に急死した。青森の実家には、母親と妹がいるけど、最近お袋の具合がよくないらしい。妹からは一度帰ってきてほしいと言われているが、「ああ帰るよ」と言いながらいまだに帰っていない。妹が結婚して近くに住んでいることに甘えている。妹は十九歳で十歳上の地元の漁師と結婚した。正樹が田舎に戻ったところでたいした仕事があるわけでもない。いや、東京にいたってろくな仕事にありついていない。身内の不幸ってのはひょっとしてお袋かも知れないな。だけどお袋はまだ五十一だから死ぬには早い。でも親父は四十四で死んだのだから有り得ないことではない。お袋が死んだら親父のときよりは寂しいかも知れないな。
「ねえ、聞いてる? 田村くん」
 内藤は正樹の目の前で推命表をひらひらさせた。
「あっ、いや、聞いてるよ。うん、すごいじゃない。内藤さんは占い師みたいだね」
「みたいじゃなくて、占い師なんだけど」
 内藤は少しムッとしながら、また正樹の占いを続けようとしたので、
「あ、ありがとう内藤さん。自分の未来なんて怖くてあんまり知りたくないから、占いはもういいよ」
 正樹は本当に自分の未来なんて知りたいとは思わない。怖いから? そうではなくてただ単に興味がないだけだ。未来を知ったからってそれを変えられるわけじゃない。
「これからが本番なんだけどな」
 内藤はちょっと残念そうな顔をしながら自分のベッドに戻って行った。そういえば奴は占いの勉強をしにまた中国に行きたいと言っていたっけ。今回のバイトもその費用を工面するために応募したんだとか。
 ここには本当にいろんな奴が来ている。大学を二回卒業して、三回目の大学生を目指している二十九歳の奴。こいつは東京の有名な大学を卒業したのに、就職せずにまた違う大学を受験して入って、そこを卒業した。そしたらまた次に一年間受験勉強をして別の大学に入った。自分でも「僕は受験勉強依存症じゃないかと思う」と言っていた。受験勉強をしているときだけが生きている実感がするんだそうだ。正樹からしたら信じられない。
 二十五歳の元ホストってやつは、初日から慣れ慣れしく正樹に話しかけてきた。こいつはどうみても売れないホストだ。まず顔がイケてない。話も下手だし、これでは指名なんて付くはずない。今は牛丼屋でバイトをしていると言っていた。ここに来たのはホスト時代の借金がまだ店に残っていて、取立てが厳しくなったからだとか。
 世界各国を旅してる奴もいる。二十八歳で今回このバイトは三回目だとか。治験のバイトは四ヵ月空ければ何度でも応募出来るらしい。なんせ二十日で四十万が手に入るバイトなんてそうはない。バイトして旅して、またバイトして旅してを繰り返している。旅する場所は今は中近東が多いんだそうだ。バイト代が入ったら翌日には飛行機に乗るらしい。
 あとは自称ナンパ師の三十一歳でこいつも常連だ。五度目とか言っていた。今は女子高生と付き合っている。本職はサラ金の取立て屋でみるからにやくざっぽいけど、やさ男で口はうまい。
 それから、フツーの会社員が有給休暇を使って来ていたり。こいつは離婚して会えない娘の誕生日にピアノを買ってやりたいとか。現役大学生もいる。デザイナー志望の奴、会計士を目指している奴。正樹はそんな奴らを勝手に、占い師とか、受験生、旅人、ホストにナンパなどと心の中であだ名をつけて呼んでいた。
 だけど奴らには一応ここに来なければならない理由がある。来たい目的がある。でも、じゃあ自分は? 自分は何か目的があってきているわけじゃない。派遣の仕事だって契約終了までにはまだだいぶあったのに、なんとなくかったるくて辞めてしまった。貯金があるわけでもないのでさっそく家賃の支払いにも困った。
 こんなところに来ている奴はみんな自分と同じで腐ったかぼちゃだ。けれどみんな何がしかの目的は持っている。たとえそれが人から見てくだらないものであったとしても、本人の中にポリシーとして存在している。
 だけど自分は何なんだ。何もない。高校時代はそこそこ出来た。東京の大学を受験してみたらと言われたが、大学に行く金なんてどこにあるんだ。大学は受けなかったがそれでも結局東京に出て来た。最初の一年は慌ただしかった。二年目には気力がわいて来なくなった。どうしてだか分からない。仕事のせいなのか、それとも東京のせいなのか。この街は自分の中から生きる気力を奪い取っていく。それなら田舎に帰ればいいようなものなのに、正樹はまだ東京に残っている。出てきて最初に就職した小さな広告代理店は一年で倒産。それからは警備員とか、中華料理屋のホール、派遣なんかで食いつないでいる。正樹は内藤の占いを思い出して「五十過ぎまで俺の人生はこんなもんなのか」とつぶやいた。
 昼食が終わってぼーっとしていたら、
「みなさーん、今日はミサンガを作りまーす」
 突然甲高い声が響いた。二十歳の看護師、岬めぐみだ。ここでは暇つぶしのためにみんなで集まってひとつのことをやったりする。三日前には陶芸をやった。いや、やらされた。粘土をこねて各自好きなものを作る。それを電子レンジで焼くと、見事な陶芸品の出来上がりってわけだ。正樹はマグカップを作った。幼稚園のときの粘土遊びを思い出してそれなりに楽しかった。ほかの奴らもけっこう楽しんでいるようだった。とにかくここから出てはいけないわけだから、施設のスタッフもみんながなんとか退屈しないように考えている。
それにしても今日はミサンガか。これはたぶんめぐみの案だろう。陶芸はここの製薬会社の担当者が趣味でやっていると言っていて、講師もその男だった。なんか老人施設みたいだ。正樹は前にテレビで観たディサービスの場面を思い出していた。老人たちがまるで幼稚園児のようにお遊戯をしたり、折り紙をしたり歌を歌ったりしていた。いい年をしてそんなことやっていったい何が面白いんだと思って観ていたが、今自分たちがやっているのもそれとたいして変わりはない。ただこれがけっこう楽しかったりしたのには自分でも驚きだった。人間はもともとこんな単純でなんてことないようなことをやっているのが合っているんじゃないかと、ふとそう思った。
文明が発達して難しいことを考え過ぎるようになった。本来生きるってのは食って出して寝る。それだけのことなんじゃないのか。金だって食えるだけのもんがあればいいんじゃないか。それをみんな目の色変えて金だ金だって言うから、そこにいらぬ争いが起きるんだ。じゃあ自分は金はいらないのかって言われるとそれは欲しい。そんなにはいらないけど少しは欲しい。実際金というものは便利なものだし、あるにこしたことはない。金があったら、自分は今ここでこんなことをしてはいないだろう。 
「はい、これは田村さんの分ね」
 正樹はめぐみから三色の紐を渡された。
「はいみなさん、まずこの紐をこう持って」
 めぐみの説明の通りに全員がミサンガを編み始めた。正樹はなかなかうまく編めない。隣のホストは顔に似合わず器用に編み上げていく。ミサンガなんてここに入らなければ一生作ることなんてない。
「ねえ、あのもうひとりの看護師、上田京子だっけ、なかなかいいよね」
 ホストが編む手を止めて正樹に囁いた。
「僕さ、あんな感じの女性が好きなんだ。なんか癒される感じがするよね。そう思わない?」
「いや、別に」
 正樹はまったく興味がないというように答えた。でも実際はホストの言うように、京子のことを感じのいい女だと思っていた。正樹は今までにも何人かと付き合ったことがあったが、どの女とも長続きせず、三ヵ月もするとこっちから連絡することもなくなり自然消滅というのがほとんどだった。前の職場で同僚が殺傷事件を起こしたことがあった。付き合っていた女をほかの男に取られてカッとなって刺したらしい。正樹にはそういう痴情のもつれとかでカッとなるやつの気持ちが分からない。まあそれだけ女に入れ込んだことがない、と言ってしまえばそれまでだけれども。
「みなさーん、出来上がったミサンガを腕に付けてみましょう」
 めぐみはいつもどこから出しているか分からないような声を出す。全員が色とりどりのミサンガを腕に付ける。なんか島流しにあった囚人の目印みたいだ。正樹も囚人の証を左腕に付けた。すると本当に囚人になったような気がしてきた。自分はここに囚われている。この東京の片隅の誰にも知られていない収容所にいる。いや、東京という街自体が収容所だ。それならこの日本という国だってそうだ。民主主義の国、自由な国。日本は世界の中でも安全で暮らしやすい国。そして俺たちはそこに囚われている囚人。抜け出すか? この収容所を。どこに? 旅人のように、あいつのように日本を抜け出してみる? だけど自分はどこに行きたいんだ。行きたいところなんてないじゃないか。 
 ミサンガを作ったあとは特にやることはない。正樹は文庫本を取り出して読み始めた。ホストにナンパ、会社員に大学生の四人はまた休憩室でマージャンを始めた。二十九歳の受験生はベッドの上で参考書を開いている。旅人はヘッドホンを付けて音楽を聴いている。それぞれが思い思いのことをして過ごす。正樹は誘われればマージャンをするし、話しかけられれば話しもする。
 受付から京子の笑い声が聞こえてきた。正樹は反射的にベッドから起き上がった。起き上がってはみたもののどうするということもないので、トイレに行くことにした。受付の前を通るとホストが京子を笑わせていた。横目でチラッと見ながらトイレに向かった。京子がホストを気に入っているとは思わないが、ホストは京子を気に入っている。だから? だからなんなんだ。トイレから戻るときもホストはまだ京子としゃべっていた。正樹はベッドに転がって窓から少しだけ見える空を眺めた。 
 ここの夜はやたらと長い。だいたい昼間からゴロゴロしているだけだから、疲れてもいないしまったく眠くならない。やっと眠りに入ったと思ったら他の奴のいびきがうるさい。寝言で叫ぶ奴もいるし、唸っている奴もいる。いつも唸っているナンパはよっぽどヤバイ夢でも見ているんじゃないか。下手したら昼間より夜の方がうるさいくらいだ。
 正樹は天井をぼんやりと見つめながら、ここがもし無人島だったらと考えていた。正樹たちの乗った船が漂流して無人島にたどり着いた。乗組員は正樹たち十人と京子とめぐみ。製薬会社の社員は船長だな。薬剤師も乗せてやろう。ということは男は十二人。十二人の男で二人の女の争奪戦が繰り広げられるのだろうか。女に興味のない奴もいるかな。いやいないだろうな。俺はもちろん京子だな。奪うとかじゃなくて、京子自身が俺がいいって言ってくれたら最高だ。正樹は無人島で京子と抱き合う夢を見ながら眠りについた。

 翌日は留置針という検査の日だ。この検査はけっこうキツイ。朝九時から夕方六時まで検査室に入り、そこでずっと点滴の針を腕に刺されたまま色んなデータを取られる。順番に二人ずつこの検査を受けさせられる。
 この日の検査は、正樹と二十五歳のホストだった。ふたりとも点滴の針を刺されてベッドに寝かされているので動くことが出来ない。
「田村くんはどうしてここに来たの?」
 ホストが話しかけてきた。そういえば正樹は自分のことは特に誰にも話していない。ほかの奴らはけっこう色々話しているので、それを聞くともなしに聞いていて、勝手にみんなにあだなを付けたのだ。もっとも正樹自身には別段話すようなことは何もない。ここに来たのだって、たまたまネットで見つけたからに過ぎない。
「いや、なんか楽して金になる仕事はないかなって思って、ネットで検索したんだ」
 正樹は本当のことを言った。
「まあ確かに、これは楽って言えば楽だね」
「どうしてホストなんてなったの?」
 正樹はホストの名前をど忘れしてしまった。
「サラ金に借金があってね、ホストなら稼げるからって先輩に誘われたんだ」
「で、借金は返せたの?」
「いや、それどころか店にも借金が出来ちゃって、だからこのバイトすることにしたんだけど、四十万じゃまだまだ足りないんだよね」
 ホストは情けない声を出した。
「もう一回やればいいじゃない。このバイト」
 正樹はホストの方に顔を向けて言った。ちょうどホストもこっちを見ていて目が合った。
正樹は慌てて視線を天井に向けた。ホストなんかと見つめ合ってどうするんだ。
「うんそのつもりだよ。四ヶ月空ければいいもんね。それまでは牛丼屋でバイトしてまたこれやるよ。三十日コースってのもあってね、それだと六十万貰えるんだって」
 そんなコースもあるなんて知らなかった。
「でも、それってけっこう危険なんじゃないのかな」
「どうかな、まだ死んじゃったなんて話も聞かないし、大丈夫なんじゃないかな」
 本当に能天気な奴だと正樹は思った。後遺症が残った奴や死んだ奴だっているかも知れない。ただ世間には公表してないだけなんじゃないか。いくら金がいいからって何度もやるようなバイトじゃない。だけど三十日で六十万は魅力だな。本当に困ったら自分もまたやるかも知れないな。
「もうホストはやらないの?」
正樹は天井を見ながら聞いた。
「僕はホストには向いてないみたいなんだ」
 そんなこと今頃わかったのかと笑いたくなるのを我慢して、どうして? と聞いてみた。ほんとはホストのことなんてどうだっていいんだ。
「あの世界は高校の部活より上下関係が厳しいんだ。僕は野球部だったんだけどそれの比じゃないよ。先輩が怖いのなんのって。僕なんてヘルプ以上にはなれなくて稼ぎなんてほとんどなかったんだ。それくらいならまだいいけど、先輩のお客の未収分まで僕のせいにされたりして、店には借金が増えるばかりだったよ」
「へえ〜そうなんだ。楽じゃないね。でもいいこともあったんだろ?」
「別になかったな」
「セレブなマダムから貢がれたりしなかったの?」
「それは売れてる奴の話だよ。僕なんか反対に貢いだ方さ」
「金渡したの?」
「いや、体。先輩がさ、自分だけじゃさばき切れなくなった客を僕に回すんだ。客はさ、セックスがしたいから、このさい僕でもなんでもいいやってことになるんだ」
「ただでやってやったってこと?」
「そう、これがけっこうきついんだよね。歳くってても美人ならまだいいよ。でもマツコデラックスみたいなのが来た日にゃもう拷問だよ。先輩はもちろんそんなのは相手にしないから、金は自分がもらって、あとは客をうまいこと言いくるめて、セックスはこっちに振るんだよ」
 正樹はマツコデラックスを相手に奮闘しているホストを想像して思わず吹き出してしまった。ホストの世界も楽じゃないってことか。いや、こいつはどこに行ってもどんくさいだろうな。でもじゃあ自分はどうなんだろう。正樹は自分がホストになったら稼げるんだろうかと考えてみた。ここを出たらホストにでも応募してみるか。意外にナンバーワンになったりして。いや、それはないなと苦笑した。隣を見るとホストがいびきをかいていた。  

 正樹は翌朝京子に起こされるまで目が覚めなかった。体がだるい気がすると言うと、京子は正樹の額に手を当てた。
「熱があるみたい」
 京子は眉間にしわを寄せた。胸ポケットから体温計を出すと、正樹の左腋にはさみ、右腕には血圧計を巻きつけた。
「血圧は大丈夫。熱は……あら、三十八度五分もあるわ」
 どうりでだるいはずだ。熱なんて出したのは何年ぶりだろう。いつからでどんな具合かと聞かれたが、今朝起きたら熱が出ていたと、正樹はそれしか言えなかった。京子は先生に診てもらいますからと言って足早に出て行った。
 しばらくすると京子が戻って来た。診察室に入るように言われたので起き上がろうとするが力が入らない。京子に抱きかかえられるようにしてベッドを降りた。京子によりかかって歩くのは悪い気分じゃない。京子はしきりに、どうしたのかしら大丈夫かしらと呟いている。
 診察室のベッドに横になるとすぐに医者が来た。聴診器を当てられて脈を計ったあと、医者は京子に耳打ちしている。
「田村さん、病室を代わってもらいますね」
 京子は気の毒そうに正樹を見て言った。正樹は、えっ、なんで? と言ったつもりが声にならなかった。移動した部屋は六畳くらいで、ベッドがあるだけだ。横になって天井を見ると明り取りの小さな天窓がある。
「ちょっとここで様子を診させてくださいね。気分が悪くなったらこのボタンを押してください」
 京子は正樹の掌にボタンを載せた。正樹はそれを握りしめながら急に不安になった。京子にここにいてほしいと思ったけれど、そんなことは言えるはずもなく京子は部屋から出て行った。
 隔離だ。自分は隔離されたんだ。正樹は天窓に向かって声を出した。かすれたような声だった。副作用が出たんだ。ほかの奴らは大丈夫なのに自分にだけ? なんでだ。京子も医者も何も説明してくれてない。この熱は何なんだ。正樹はボタンを握った手が震えるのを感じた。そして誓約書に書いてあった文字を思い出した。いかなる副作用が出ようとも、異議を申し立てません。正樹はそれに署名捺印したんだ。だからどんなことになろうとも何も文句は言えない。それに一生後遺症が残ることになっても、製薬会社が責任を持って面倒を見てくれるではないか。一生? 一生残る後遺症ってどんなのだ。歩けなくなくなるのか。それとも脳がいかれるのか、目が見えなくなるのか、不能になるのか。思いつく限りの後遺症を想像した。どれが一番ヤバイだろうか。どれになるのも勘弁してほしい。でもどうしてもなるっていうのなら……。正樹は熱でボーっとした頭で考えた。歩けなくなる。どうしてもならこれにしてほしいと思った。それ以外のはダメだ。車イスの生活は不便だろう。しかし脳がいかれるよりはマシだ。目が見えないと本も読めない。観たい映画だってあるんだ。不能は? それもダメだ。まだ全然やり足りない。子供だって欲しい。だから、やっぱり車イスしかない。これならなんとか妥協できる。正樹は遠くなる意識の中で後悔していた。なんでこんなバイトなんてしたんだ。よりによってなんで自分にだけ副作用なんて出るんだ。

 正樹の記憶にある海はいつも荒れていた。冬はもちろん夏でも荒れていた。断崖に打ち付ける波は子供心に恐ろしかった。崖から見下ろすと波は生き物のように正樹に襲いかかり、呑みこまれそうになる。正樹は四つん這いになってそれをじっと見つめながら、呑み込んで欲しい気持ちと逃げ出したい気持ちとの戦いをする。小学校三年生の正樹は学校からの帰り、ときどき道草をしては断崖に行き、そこから下を眺めていた。
 正樹の住んでいるところは、青森でも日本海側のはずれで人口五千人に満たない町だ。前には荒々しい波しぶきをあげる海。後ろは覆いかぶさるように迫ってくる山々に囲まれている。長い冬は太陽が照る日の方が少ない。娯楽なんてほとんどない。みんなはいったい何が楽しくてこんなところで暮らしているのだろう。それでもそこが自分の生まれた場所であるのなら、それは最初から定められた運命なのだろう。
 子供の頃の正樹は自分の住んでいるところが嫌いではなかった。というより、そこしか知らないのだから比較のしようがない。父親は役場に勤めていた。母親は広いとはいえない畑で野菜を作っていた。三つ下の妹との四人暮らしは、傍目にはなんの不足もない幸せな家族と映っていたはずだ。それがいつからどうしてこんなことになってしまったのか。正樹が気づいたときには、もうそれが始まって随分たっていたみたいだ。たとえもっと前に分かっていたとしても、子供の正樹にはどうすることも出来ない。
 ある夜、正樹は夜中にのどが渇いて目が覚めた。台所に水を飲みに行くと、流しに向かって母親が泣いていた。声をかけることははばかられたのでそのまま部屋に戻った。けれどその夜から正樹は幾度となく母親の泣いている姿を見かけた。
 それからしばらくたった初雪が舞った夜のことだった。正樹は寝入りばなを母親に起こされた。「正樹、かあちゃんと行こう」そう言うと母親は正樹の肩に丹前をかけた。「どこに?」正樹は寝ぼけ眼で聞くが母親は答えない。聞いてはいけないような、逆らってはいけないような気がして母親に手を引かれたまま家を出た。今夜は月も出ていない。辺りは闇に包まれていた。母親は右手に懐中電灯を持ち、左手で正樹の手を強く握っている。冷たい風が正樹の頬を刺す。母親はまっすぐに前を見据えて懐中電灯の明かりを頼りに足早に歩く。正樹は小走りになりながら母親に引きずられる。集落を抜けると街灯もなくなり闇はますます深くなる。
 正樹は声を発することが出来なかった。ただ寒くて怖かった。夜の闇も怖かったが、なにより母親の顔を見るのが恐ろしかった。今、正樹の手を引いているのは母親だ。でもその顔を見たとたん、絵本で見た恐ろしいやまんばに変わっているような気がした。正樹は懐中電灯の明かりを見つめてひたすら歩いた。母親に、いや、やまんばに手を引かれて。
 どれくらい歩いただろうか、母親が突然足を止めた。闇の中から叫び声が聞こえる。自分はとうとうここでやまんばに食い殺されるんだ。正樹は恐ろしさのあまり体中が小刻みに震えた。「寒いかい?」母親の声がした。それでも正樹は顔を上げることができない。声は母親でも本当はやまんばかも知れない。声はそれっきりせず、代わりに岩に打ち付ける波の音がした。雲間から月の明かりがもれてきた。漆黒の海が浮かび上がる。ふたりは岸壁に立っていた。正樹が月明かりの下、自分の手をしっかりと握っている者を見上げると、母親の顔があった。やまんばなんかではなく母親だったことにほっとした正樹は、声を出そうとしてその声を飲み込んだ。母親は泣いていた。
 正樹の記憶はそこで終わっている。気がついたら朝で、自分は家の布団の中にいた。夢だったんだろうか。自分は夢を見ていただけなんだろうか。台所でネギを切っている母親に、夕べのことを尋ねる勇気はなかった。
 それから、何度か同じことがあった。夜、妹が寝入ったころ母親は正樹を連れ出して岸壁に向かう。懐中電灯を持って、正樹の手を引き無言で歩く。しばらく岸壁でたたずんだ後、家に帰る。人間はどんなことにでも慣れる生き物だ。最初は恐怖だったけれど、正樹はいつしかこれは真夜中の散歩だと思うようになった。母親は夜中に自分と散歩がしたいだけなんだ。妹ではなく自分だけと。そう思うと怖くもなんともなくなった。ただ、その散歩の最中、母親と言葉を交わすことはなかった。そして散歩をするのは決まって父親のいない夜だった。
 その年の暮れ、父親はその岸壁から転落して死んだ。警察の調べでは、趣味の写真を撮りに行って、あやまって足を滑らせたのだろうということだった。
 父親が死んでからは、母親が正樹を真夜中の散歩に連れ出すことはなくなった。その代わり正樹は学校の帰りにその岸壁によく行くようになった。たとえ雪が深くても、その雪を乗り越えて岸壁に向かった。うねりくる波の中に父親の姿を探していたのかも知れない。海そのものが父親に思えた。じっと見つめていると波の中の父親が正樹を引きずり込もうとしているような気がした。
 正樹が中学に入ったころ、たまたま来ていた叔父が母親と話しているのを立ち聞きした。父親は妹が生まれた頃から外に女がいた。母親に暴力をふるっていたこともあった。どうしようかと思っていた矢先、父親は事故で死んでしまった。そういう話だったが、正樹は特に驚きはしなかった。
 正樹は高校を卒業したらすぐに東京に出た。あの重苦しい風景から逃れたかった。冬の空は灰色一色になり、風は窓を打ちつける。春になるまでこの場所には陽が射さないのかと思う。やっと訪れた春は花を楽しむ間もなく去り、虫取り網を三回振り上げたら夏は終わっていた。
 ここから脱出するんだ。灰色の空はもう見飽きた。違う場所へ、ここではないところへ行かなければ。そう思って出てきた東京は、田舎よりも重苦しい灰色だった。たった一つの救いは、東京では空なんて見えないことだ。
 同じだ。どこでも同じだ。自分の生きている場所は全部灰色だ。どこにも色なんてついていない。なのに、なんでみんな笑っているんだ。なにが楽しくて生きているんだ。ここは収容所じゃないか。戸籍謄本が囚人の証じゃないか。
「でもね、日本人っていう証明があるから、ここに住んでいられるんだよ。この国に守られてるんだよ。なんかあったら国が助けてくれるじゃない。無国籍だったら、どこでも暮らして行けないよ」
 付き合っていた女がそう言った。正樹は小さく笑っただけだった。

「田村さん、具合はどうですか」
 その声に目を開けると、京子の顔が真近にあった。京子の目は自分を憐れんでいるように見えた。正樹はひどい副作用が出たのだと思った。昔のことをちゃんと思い出せたのだから、脳がいかれたってことはないだろう。いや今からいかれるのかも知れない。それとも死に至る副作用なのか。自分はここで死ぬのか? まだ二十三なのに。まだ何もしていない。だけど何がしたい? したいことなんてないじゃないか。何もしてなくて何もしたくない。それなら死んでもかまわないじゃないか。
「これは副作用ですよね。俺は後遺症が残るんですか? どんな後遺症ですか? はっきり言ってください」
 正樹は京子の腕を掴んだ。
「えっ?」
京子は驚いた顔をした。それから表情がゆるんで目が笑った。
「田村さんたら、大丈夫ですよ。副作用なんかじゃないですよ」
「じゃあ、何ですか? 俺だけどうしてこんな熱が出るんですか?」
「風邪です」
「えっ? 風邪?」
「ちょっと熱が高かったですけど、薬が効いてくるのでじきに下がると思いますよ。新薬の副作用なんてことはありませんから安心してください」
 風邪で熱が出ただけ?
「副作用とか、後遺症なんて今まで誰にも起こったことありませんよ」
 京子は正樹を抱き起こすと、汗で湿ったパジャマを脱がせた。
「田村さんたら、そんなこと心配していたんですか? ほんとにただの風邪だから大丈夫ですよ」
 そう言いながら温かいタオルで正樹の体を拭いた。正樹は拍子抜けして大きなため息をついた。京子はふふふと笑っている。
「なんかおかしいですか」
 正樹はバツが悪そうに聞いた。
「だって、田村さんたら見かけによらず怖がりなんだなって思って」
「こんな熱が出たら心配じゃないですか。それにあんな誓約書まで書かされてるんだから」
 正樹はかすれた声で言った。
「私はここで働いて十年になるけど、新薬を飲んで体がおかしくなった人なんて、ほんとにいませんでしたよ」
 京子は洗いたてのパジャマを正樹に着せながら、またふふふと笑った。
「だからみんな何回もやってるんだ」
「そうね、けっこう常連さんが来るわね。でも何回もやるのは感心しないわ」
「だけど、これは楽でいいバイトだよ。後遺症の心配がないんなら、俺もまたやるかも知れない」
「多い人で、十五回目っていう人もいたわ。なにか目的がある人ならまだいいと思うけど、楽してお金が欲しいだけっていうのはどうなんでしょうね。それに年齢制限だってあるし、いつまでも出来るバイトじゃないわよね」
 確かに応募規定では四十歳までとなっていた。短期ならいいバイトだけど、四ヵ月空けるとなると一年に三回しか出来ない。三十日コースで六十万貰ったとしても年間では百八十万しかならない。そう考えると別にいい仕事でもないな。なにより将来性はまったくないし、やりがいなんてのも皆無だ。それを十五回もやってるなんて。それだけこんなバイトが出来る奴ってのもある意味すごいのかも知れない。
 夕方になると正樹は熱も下がって、体が軽くなった。本当に風邪だったんだ。本気で心配した自分がおかしかった。死のうが生きようがどうでもいいと思って生きていたはずなのに、いざ死ぬのではないかと思ったときは恐怖を感じた。人は明日も同じように生きていると思っている。毎日が変わらずに続いていくと思っている。でも実際は、事故があったり災害があったり、思わぬ病気になって死ぬことだってある。明日のことなんて誰にも分かりはしない。今日を生きていることだって本当は奇跡なのかも知れない。人はみんな傲慢なんだ。そして自分の身にだけは不幸なことは起こらないと思っている。だからいざそんな目にあったりすると、あたふたとうろたえるんだ。

 正樹は翌日の昼過ぎに一般の病室に戻った。たった三日隔離されていただけなのに、随分長い時間のような気がした。病室には受験生がひとりいるだけだった。相変わらず参考書を広げている。正樹をチラッと見て、また参考書に目を落とした。
「みんなはどこに行ったんですか」
 正樹は声をかけてみたが、受験生は無言のまま参考書のページをめくっている。正樹はふっと短い息を吐いて自分のベッドに横になった。こんなところでもまだ隔離部屋よりはましだと思った。人は比較論で幸せを感じるものなのだろうか。無人島でひとりなら、自分が幸せかどうかなんて考えないかも知れない。自分の持っていないものを持ってる奴、自分が出来なかったことをやってる奴、そんな奴らと自分を比べて、幸せだとか不幸だとか思うんだ。
「みんな散歩に行ったよ」
 受験生が突然言った。正樹は反射的にベッドから起き上がって、「えっ?」と聞き返した。
「今日は散歩の日なんだってさ。四谷から新宿御苑まで歩くんだ」
 受験生の声は思いのほか大きくてはっきりしていた。
「希望者だけなんだけど、僕は行く気がしなかったから残ったんだ。あとは全員出かけたよ。付き添いは甲高い声の看護師と薬剤師だよ」
「勉強あるから行かなかったんですか?」
 正樹は間の抜けた質問だと思いながら聞いてみた。
「いや、前のときは行ったんだけど、なんか幼稚園の遠足みたいで気が乗らないんだ」
「前って?」
「ああ僕、ここに来たのは四回目だから」
 受験生も常連だったのか。
「今回の治験に集まったのはほとんどが顔見知りだよ。初めてなのは君と、ほらあのデザイナー志望の奴、競馬が趣味の現役大学生くらいかな」
 十人中七人が常連だなんて思わなかった。結局こんなことをしていると普通に働くっていうのは出来なくなるもんなのか。
「勉強、好きなんですね」
 正樹はもう少しマシな質問は出来ないもんかと情けなくなった。
「勉強が好きなわけじゃなくて、受験勉強が好きなんだ。だから大学に受かると、もうそこで目標がなくなるんだ。でも一応入った大学は卒業するよ。入るときは主席で入って、出るときはギリギリの単位でなんとか卒業ってわけ」
「それで、また違う大学を受験するんですか?」
「まあそういうことかな」
「今度はどこを目指しているんですか?」
「東大。だけどもし東大に合格したらどうしようかと思ってる。それ以上はないだろ。僕の受験勉強はそこで終わりになる。それは考えると恐怖でもあるんだ」
 正樹にはさっぱり分からない話だ。
「落ちたらいいんじゃないですか?」
「合格するために勉強しているんだ。落ちるなんて選択肢は僕にはない」
「なら外国の大学に行ったらいいじゃないですか?」
「ダメだ。外国には行きたくないんだ。僕はこの日本から出たくはないんだ」
「じゃあ、東大はやめて日本の違う大学にしたらどうですか?」
「親からはもう、東大以外なら学費は出さないって言われてるんだ」
「それなら東大を卒業して就職するしかないですね」
 正樹がそう言ったあと、受験生は口を閉じた。そしてまた参考書を広げた。正樹は寝転んで文庫本を手に取った。受験勉強をし続ける二十九の男に学費を出し続ける親。別に自分には関係ないなと小さくつぶやいた。
 夕方になると散歩に行った奴らが帰ってきて、部屋の中は賑やかになった。みんな久しぶりに外に出たせいか少し興奮しているようだ。現実の社会から切り離されて十二日たった。ほかの奴らはどうだか分からないが、正樹にとっては長い時間だ。もともと自分の存在なんて感じていたわけではないが、ここにいると、ますます自分が何なのか分からなくなる。ここを出たら五十年くらいたってるんじゃないか。ふとそんな恐怖が脳裏をかすめた。まさか浦島太郎じゃあるまいし、そんなことあるわけない。でも、もし本当に五十年たっていたら、それはそれでいいような気もする。自分は七十三になり、残りの人生の時間のメドがつく。そうしたら気が楽になる。まだ二十三の自分にとって、生きるというのは、未知の世界が長く続くことである。そしてその時間を逃げ続けなければならないとい脱力感に襲われる。
 逃げる? そうだ逃げているんだ。あの重苦しい故郷の閉鎖的な町。どこにも逃げ場所のない閉塞感に窒息しそうだった。正樹は自分に与えられていた屋根裏部屋を思い出した。あの部屋は昨日までいた隔離部屋に似ている。天井についている小さな窓。そこから見える灰色の空。だから思い出した? 昔のことを。漆黒の海、表情のない母親の顔。自分は母親と一緒に、いつかこの海の中に消えてしまうんだという恐怖。そして、父親の死。事故? だった。警察がそういうのなら事故なのだ。何もかもから逃げ出したかった。早く、早く逃げろと心が叫んだ。
「食べないの?」
 ホストの声でわれに戻った。見ると、まんじゅうがが置いてある。
「めぐみさんがみんなに買ってくれたんだ。新宿御苑のみやげだよ」
「ああそう、食べるよ」
 正樹はまんじゅうを手にとった。
「でも、治験の最中にこんなもん食べてもいいのかな?」
 間食は禁止だって言ってたじゃないか。
「薬剤師さんの許可もあるから大丈夫だよ。でもさ、今日久しぶりに街に出たけど、やっぱシャバはいいね。女の子もいっぱい歩いてるし、なんたって明るいよ。早く出たくなったよ」
 ホストは二個目のまんじゅうを口にしながら言った。出たってまた牛丼屋のバイトをやるだけじゃないか。正樹はそう言いそうになったので慌ててまんじゅうを飲み込んだ。でも自分だってここを出たあとにどうするかなんて決まっていない。牛丼屋でバイトをしてたらお笑いだ。
正樹がぼんやりと空を見ながら過ごしているうちに残りの日々が過ぎて行った。
 
「みなさん、明日でこの治験のお仕事は終わりです。本当にご協力ありがとうございました。それでは明日の夜は最終日恒例のしゃぶしゃぶを食べに行きます。楽しみにしていて下さいね」
 夕食のときに京子が言った。もうなのかやっとなのかは分からないが、とにかく明日で二十日たつんだ。二十日間よく頑張った。何を頑張ったのか分からないが、とにかく頑張ったんだと正樹は思った。
 翌日は秋晴れの爽やかな空が広がった。午前中から三時過ぎまでは全員の検査がある。それが終わると荷物の整理をして、正樹は夕方までゴロゴロしていた。最後までマージャンをやっている奴らもいたし、受験生は相変わらず参考書を開いていた。
 五時半になると製薬会社の社員がやって来た。簡単な挨拶をすると、全員にバイト代を手渡した。封筒に入った四十万はそこそこに重みがある。今はなんでも振り込みだから現金をもらうことなんて滅多にない。やっぱり現金はうれしい。ナンパが中身を出して数え出した。釣られてほかの奴らも数え始めた。正樹も一応数えてみた。現金で四十万も貰ったのは初めてだった。やっている最中はこんなことはもう嫌だと思い、終わってみればこれも良かったなんてことを思う。過ぎてしまえば何だっていいんだ。人は結局のところ今この瞬間しか生きていない。たとえ過去にひどい痛みを感じていたとしても、今現実に痛いのでなければ、その痛みは存在していない。
「みなさん、そろそろ出発します」
 京子の声にみんなが立ち上がった。正樹も封筒をカバンに突っ込んでベッドから腰を上げた。ぞろぞろと部屋を出てエレベーターに乗り込む。全員が無言だった。みんなここを出たあとのことを考えているのだろうか。二十日間ここに囚われていて、奴らは何を感じているのだろう。何も感じてはいないのかも知れないな。なんせ奴らは常連だからな。また四ヵ月たったらここに集まっているんだろう。
 秋の日暮れは早くて、外はもうすっかり暗くなっていた。正樹にとって二十日ぶりの外の空気は冷たくて気持ちいい。大きく腕を上げて伸びをした。治験の施設を振り返ると、今出て来たばかりなのに、なにか懐かしい思いと、息苦しい思いが交差した。結局自分はどこにも行けないし、行きたくもない。空が灰色だろうが青だろうが、そんなことはどっちだっていい。死なない限り明日は来る。明日が来たらその一日をやり過ごすだけだ。逃げたいなら逃げ続ければいい。それもそのうち飽きるだろう。正樹にとってたったひとつはっきりしていることは、このバイトはもうしないってことだけだ。
ふと空を見上げると星がひとつ輝いている。ビルに囲まれた小さな空に。暗いのに灰色の空に輝いている星は、正樹にだけしか見えない。
 京子とめぐみ、そして製薬会社の社員と正樹たち十人は、四谷の街をしゃぶしゃぶ屋に向かって歩いている。誰も何も話さない。正樹は一番後ろを歩きながら、もう少しここで、この街で生きてみるかな、とつぶやいた。


                                       了

                                                              

 
posted by いろり at 07:37| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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