2011年09月27日

ほんの少しの寄り道


             ほんの少しの寄り道                   

                          
 梅雨も終わりに近づいて、本格的な暑さが迫ってきていた。良夫は汗をふきながら時計を見た。五時四十五分。今日は現場が近くだったおかげで、早めに事務所に戻ってきた。書類を整理して六時には終わるだろう。別に早く帰りたいわけでもない。いや、どちらかというと帰りたくはないのかもしれない。ぐずぐずとロッカーで作業服を脱いでいると、同僚の武が声をかけてきた。
「いっぱい飲みに行かないか」
「ああそうだな」
 これといった用もないので、良夫は武の誘いにふたつ返事でうなずいた。良夫は従業員五人という小さな工務店で塗装の仕事をしている。高校を卒業してブラブラしていたのをそこの親方に拾われたのだ。もともと根が真面目だったのか仕事が性に合っていたのか、勤め始めてからはや二十年になる。
「いつものとこでいいよな」
 同僚の武は飲みに行くと言えば決って珠代のいる店だ。
「ああいいよ」
 良夫はたいして飲める方じゃない。いつも暇つぶしに武の行く店に付き合うのだ。武は良夫と同い年の三十八だが、独身ということもあってか良夫より若く見える。
「いらっしゃい」
 ドアを開けると珠代の威勢のいい声がした。雑居ビルの中の小さな店で、カウンターに七人も座ればいっぱいになる。せっかく街に出てきたのだから、もっとしゃれた店に行っても良さそうなものだけど、武はここの雇われママの珠代にぞっこんなのだ。珠代は何度聞いても歳を教えてくれない。良夫の見るところ四十はとうに過ぎていると思うのだが、武に言わせるとまだ三十五くらいなのだそうだ。肉付きがよく顔もおかめのお面のようだ。そんな珠代のどこがいいのか良夫にはさっぱり分からない。良夫が武に付いてこの店に来る理由はカラオケがないからだ。良夫はカラオケが苦手で人の歌を聞くのも好きではない。客も入らないこの店で、武と珠代のたわいもない話を聞きながら飲めない酒を飲むのが心地いい。
「ほんとに良夫さんておとなしいわね」
「ああこいつ無口なんだよな」
 二人が良夫のことを話し始めたとき、良夫は「ちょっと」と言って席を立った。急に風に当りたくなったので店を出て、そのままなんとなく駅の方に向かって歩き出した。武を置いて帰るつもりなわけじゃない。ふと駅前の喧騒に惹かれたのだ。八時を過ぎたばかりの街は、夜はこれからだというような若者たちが集まって来ていた。駅前広場ではストリートライブに興じるものやローラースケートを操る若者で賑わっている。
 良夫はそんな若者たちをぼんやりと眺めていた。自分とあいつらとの違いって何だろう。若さなのか、いやそんなことじゃない。自分にはあいつらが発するような熱量がない。若い頃から何かに熱くなったことなんてない。だからといって全てに醒めてるわけでもない。
 その時、良夫の前を女が通り過ぎた。一瞬甘いリンゴの香りがした。
「あの、すみません」
良夫は思わず声をかけていた。えっ? と言って振り返った女は、目を大きく開いてこっちを見た。
「あ、あの、いや」
 言葉に詰まった。何が言いたかったのかどうして声をかけたのか分からない。
「なにか?」
 女の声が耳に届いた瞬間、良夫は「お茶飲みませんか」と自分でも驚くほどはっきりとした声で言った。
「ナンパですか?」
 無視されるかと思っただけに女の余裕のある返事に驚いた。良夫はこわばった顔でうなずいた。
「少しだけ時間ないかな。話さない?」
「ごめんなさいね。もう帰らないといけないの」
「三十分でいいから」
「今日は無理だわ」
「じゃあ、いつならいい? 携帯の番号教えて」
「それはちょっと」
 良夫は歩き去ろうとする女を制するように前をふさいだ。最初の緊張はなくなりだんだん意地になってきた。
「それなら十分だけ」「ほんの少し」「じゃあ立ち話でいいから」なんだか押し売りのようになってきた。女は困ったような顔をしてはいたが、それほど嫌がっているふうでもない。
「私、本当に時間がないの。でも、そうね、あなたの番号教えてくれたらこっちからかけるわ」
 女はバッグから携帯を取り出した。
「ホントに? ホントに電話くれる?」
 良夫は女に番号を言った。女は自分の携帯に番号を打ち込んでいる。
「はい、登録しました」
 女がそう言ったとたん、良夫の携帯が鳴った。
「やだ、間違えて発信ボタン押しちゃった」
 女は困った顔をして首をすくめた。そしてそのまま「じゃあ」と言って、ちょうど来たタクシーに乗り込んだ。
 良夫は着信の番号を見ながらくすっと笑った。女は断るために番号を聞いたに違いない。そして登録の代わりに発信ボタンを押してしまったのだ。それにしても自分はどうしてこんな行動をしたのだろう。ナンパなんて初めてだ。見ず知らずの女に声をかけるなんて考えたこともない。なのにこの日、自分の前を通り過ぎただけの女を誘うなんて。特別に美人というわけでもない、歳も三十五くらいに思う。女から漂ってきたリンゴの香りのせいだろうか。良夫は女の番号を登録しようとして、名前を聞いていないのに気づいた。少し考えてから、「リンゴ」と入れておいた。名前も知らない人間、それも女を携帯に登録するなんて初めてだ。いつもの携帯が少しだけ重くなったような気がした。
 店に戻ると、めずらしく客が二人も入っていた。珠代は武をそっちのけで二人の客と笑い合っている。武はふてくされて水割りをちびちびとやっている。良夫は携帯をポケットにしまうと武の隣に座った。
「おっ、どこ行ってたんだよ」
 武は目だけをこっちに向けた。
「ちょっと風にあたってた。それより珠代ちゃん、とられちまったな」
 良夫は水になったチューハイを飲み干した。
「珠代はよ、俺の気持ちを知っててわざと他の客といちゃつくんだぜ」
「やきもち焼かせたいんだろ、かわいいじゃないか」
 良夫は心にもないことを言った。珠代にやきもちを焼くやつの気がしれない。
まあ、女の好みは好きずきだからな。いきなり武が「行こうぜ」と言って立ち上がったので、良夫も勘定を払うと、どうもと言って店を出た。もう一軒行こうと言う武を「いや、俺はもう帰るよ」と振り切って駅に向かった。
 ホームで電車を待つ間、リンゴに電話をしてみようかと思って、良夫は携帯をポケットから取り出した。いざ番号を押すとなるとなんだか緊張する。携帯のフタを閉じてホームの端に移動した。まったくなんでこんなことで緊張してんだよ俺、と思いながらもう一度携帯を開けるとリンゴの発信ボタンを押した。発信音の前に、ピィピィピィピ、ピィピィピィピと鳴った。「あっ、同じ機種じゃん」喜んでその次の呼び出し音を待った。一回、二回、三回、リンゴは出ない。十回鳴ったところで留守電に切り替わった。「だよな」出るわけないよな。ゆきずりの男からの電話になんて出るわけはないんだ。ひとりごちてちょうど来た電車に乗り込んだ。
 金曜の夜九時を過ぎた車内は比較的すいていた。この街の夜はこれから始まるのだろう。良夫は窓際の席に座ると目を閉じた。家に帰るのは気が重い。何がどうってわけじゃない。だけれど家に近づくにつれていつも足が重くなる。
 良夫はもう一度携帯を取り出した。リンゴにメールをしてみようと思ったのだ。同じ機種なら電話番号だけでメールができる。
(さっきはどうも。話せなくて残念だったな。とても綺麗な人だったので思わず声をかけちゃったんだ)
 賞賛の言葉を入れて送信ボタンを押した。すぐに送信完了と出た。ちゃんと
送れたらしい。返事が返ってくるとは思えないので、携帯をポケットにしまっ
てもう一度目を閉じた。休みにしなければならない家族サービスを思うと、心
臓の血管が縮んで少しだけ呼吸が苦しくなった。
 電車を降りて家に向かう途中、ポケットの携帯が震えた。見るとリンゴから
メールがきている。うそだろ……思わず携帯を落としそうになった。
(あなたもステキですよ)
 良夫はその文字をまじまじと見つめて、声に出して読んだ。なんだか信じら
れなかった。
(今、何してるの?)
 返事があったことに気をよくして、良夫はまた送ってみた。すぐに返信があった。
(ダンナとテレビ観てるの。あなたは?)
(俺は家に帰るとこ。メールなんてして大丈夫なの?) 
(いつもの友達だと思ってる。あなたは結婚してるの?)
(してるよ。子供も三人いる。君は?)
(私は子供はいないの。出来ないみたい。ダンナはほしがってるけどね)
(名前教えてくれない? 俺は佐々木良夫)
 そうメールを送ってから少し間があった。名前を教えるのは嫌なのかなと思ったそのとき返信が来た。
(あさみ)
(いい名前だね。歳はいくつ? 俺は三十八)
 駅と家の途中にあるコンビニの駐車場で返信を待ったけど、それきりメールは来なかった。携帯の登録をリンゴから、あさみに直した。あさみ…か、良夫は見ず知らずの女とのやりとりに非日常を感じて少し興奮していた。
 コンビニから歩いて五分、マンションに着いて四階を見上げると電気は消えていた。妻の由紀子と子供たちは眠っているようだ。良夫は見上げたまま息を吸い込み、そして倍の時間をかけてゆっくり吐いた。そのまましばらく明かりの消えた部屋を見つめていた。十六世帯が暮らす、この三DKの賃貸マンションの一室が良夫の家だ。たまに早く仕事が終わったときでも、パチンコしたりコンビニで立ち読みしたり、公園でぼーっとしたりしてまっすぐ家には帰らないことが多い。今夜はあさみとのメールで時間が潰れた。
 四階までゆっくりと階段を上る。良夫はエレベーターを使わない。あの狭い箱がどうにも苦手なのだ。たまに家族でデパートに行ったときでも自分だけ階段を使う徹底ようだ。
 玄関のドアを開ける前にもう一度携帯を見たがメールはきていない。静かにドアを開けたがギギィという軋んだ音が薄暗い廊下に響いた。下駄箱の上にそっとカギを置き、北側の四畳半にそっと入った。ここが良夫の部屋だ。
「何時に帰ってくるか分からないあなたに、せっかく寝かせた子供たちを起こされるのが嫌なの」と由紀子に言われたので半分物置のようになっていた四畳半を自分の部屋にした。由紀子と子供たちは南側の六畳が二間続いた和室に寝ている。真ん中にLDKがあるので、良夫が遅く帰ってきてごそごそしても子供たちを起こすことはない。
 風呂に入り、そろそろ寝ようと思ったところにメールがきた。あさみからだ。
(歳はね、あんまり言いたくないな。でも嘘も言えないし。四十一なの)
 さっきの返事だ。四十一か、そうは見えなかったな。自分より若いと思った。良夫は荷物に囲まれ、かろうじて布団一枚しか敷けないスペースに寝転んでメールを読んだ。時計を見ると十一時半だ。
(こんな時間にメールしていいの?)
 今度はすぐに返事がきた。
(ダンナはもう寝てるの。だから私はリビングでちょっと飲みながらメールしてます)
(四十一には見えないよ。若いね。仕事は何してるの?)
(ハウジングセンターで受付のパート。あなたは?)
(俺は塗装屋だよ。仕事面白い?)
(まあまあかな)
(何で俺にメールくれたの?)
(わかんない。でもなんかいい人みたいだったから)
(電話してもいい?)
(それはちょっと無理。そろそろ寝なきゃ。)
(どこに住んでるの?)
 そのあとメールはこなかった。寝たのかな、あきらめて電気を消すと良夫も眠った。

 「千江、紗江 佳江、早くしなさい」
 由紀子が声を荒げている。あ〜ん、お姉ちゃんが紗江のリボンとったぁ〜、佳江がおしっこだって、千江のカバンどこ。何してるの時間なくなるわよ。
 良夫はいつもこの騒ぎで目を覚ます。リビングは毎度のことで子供たちの運動場と化している。そこにひときわ大きい由紀子の声が入り混じる。見るとテーブルの上には弁当が置いてある。
「今日は土曜日だろ。保育園、休みじゃないのか」
 テレビのスイッチをつけながら由紀子に言う。毎朝が運動会のような光景にはなかなか慣れない。
「今日は保育園のバザーなの。前に言ったじゃない」
 六歳、四歳、二歳、三人の子供はみんな女の子だ。女ばっかりいったいいつ出来たのだ。良夫はいっときもじっとしていない子供たちをぼんやり見た。作った覚えはまったくないのだ。避妊には自信があった。もっとも良夫はコンドームが嫌いで付けたことがないから、あれを避妊というかどうかはわからないが。いつも突然、由紀子から「出来たの」と言われる。由紀子は毎日子育てに追われていて自分にかまうヒマもないせいか、まだ三十三だというのに歳より老けて見える。四十一と言っていたあさみの方が若く見えるかも知れない。
「パパ、行って来るけど、まだ洗濯機の中に洗濯物が残ってるから干しといてね。それと流しのお皿も洗っといて」
 慌ただしく四人が出て行くと、今まで聞こえなかったテレビのニュースがよく聞こえる。良夫はため息をついてコーヒーを淹れた。弁当を持って行ったってことはそんなに帰りは早くないな。少しはのんびりできることにほっとした。
 良夫の仕事が休みの日は必ず家事の手伝いをさせられる。掃除や洗濯、買い物から子供たちを遊ばせることまで、由紀子の言うことなら何でもする。
「お前ほんとによくやるよな。俺は絶対無理。だから結婚なんてごめんなんだよ」
 武はいつもそう言っていた。良夫だって別に好きでやっているわけじゃない。けれど特別に断る理由が思いつかない。死ぬほどいやってわけでもない。ただ、言われたからやっている。武はよく「お前って何考えてるか分かんないよな」と言うけれど、良夫にしてみたら武のほうがか分からない。何を考えているか分からない者同士ってことで気が合うのかと思ったりもする。
 言われた通りに洗濯物を干して食器を洗う。ついでに掃除機もかけた。終わって時計を見るともう昼になっている。弁当の残り物で昼を済ませると自分の部屋で寝転んだ。ここが一番落ち着く。携帯を取り出してあさみにメールをしてみた。
(今、何してる?)
 ほどなく返事があった。良夫の胸が高鳴った。
(今日は仕事なの。あなたは何してるの?)
 良夫は休みには家事を手伝うことや、寝転んでメールをしてること、今は誰もいないからのんびりしてるとか、どうでもいいようなことを書いて送った。
(へぇ〜、いいパパなのね)
 かわいい顔文字つきのメールが返ってきた。
(君の休みはいつ? ダンナさんは何してる人?)
(私の休みは不定期なの。ダンナはフツウの会社員)
(仕事中にメールできるんだ)
(お客さんがきたらダメだけどね。ねえ子供ってかわいい?) 
 良夫はしばらく考えてから、(わかんない)と送った。するとすぐ、(三人も
いるのに?)ときたので(知らないうちにできた)と答えた。それからしばら
く待ってもメールは来なかった。客が来てメールができなくなったのかなと思
い携帯を置いた。子供がかわいいかどうかなんて考えたことなかったな。気が
ついたらいたって感じだ。年々家の中が騒がしくなり、金がたくさんいるよう
になり、由紀子が髪をふり乱すようになり、良夫はなんとなくあまり家に帰り
たくなくなっていった。もともと由紀子とは結婚したくてしたわけじゃない。
高校時代のツレの彼女の友達で、ダブルデートに付き合わされたのだ。由紀子
も嫌々ついてきたと言っていた。それがどうしたわけか惚れられて、由紀子の
の方から付き合いたいと言われて始まった。良夫は特別に由紀子が好きだとい
う感情はなかったが、押されるままに付き合っていた。そろそろ潮時かなと思
ったところで、由紀子から「出来たの」と言われた。若い頃から失敗したこと
なんてなかったし、それには自信を持っていただけに、由紀子の妊娠は青天の
霹靂だった。結局、由紀子に言われるままに結婚した。もともと結婚に夢を持
っていたわけでもなかったし、こんなもんだと思っている。他のやつらだって
似たり寄ったりのはずだ。ちょっと時間の空いた時にあさみとメールをするの
は楽しい。良夫は携帯を握り締めながら眠っていた。

 あさみとメールをするようになって一週間がたった。夏に近づくにつれて良夫の仕事は忙しくなる。日が長くなればその分作業時間も長くなる。良夫はいつか独立したいと漠然と思っていた。二十年やっている塗装の腕には自信があった。
 昼休み、いつも良夫はあさみにメールをする。(忙しい?)とか、(休みは何してるの?)とか、たわいもないことだ。すぐに返事がくるときもあれば、夜になってからのときもある。あさみからメールはほとんど返信だった。返事だけはその日のうちに必ずきた。
 昼休みに由紀子が作った弁当を食べながら、あさみにメールをする。良夫は毎日の生活に少しだけ色がついたような気がした。
「何にやにやしてんだよ」
 武が声をかけてきた。
「おまえ最近、昼になるとメールばっかりやってんな。誰なんだよ」
 隣に座った武がカレーパンを食べながら良夫の携帯を覗いた。
「誰でもないよ」
 良夫は慌てて携帯をポケットにしまった。
「それより、珠代ちゃんとはどうなってるんだ」
「実はさ、昨日プロポーズした」
 うかない顔の武を見て、珠代の答えはノーだったのかと思い、
「まあ、その、仕方ないこともあるよ。相手のあることだし」
 良夫はありきたりな、なぐさめを言ってみた。
「いや、珠代は涙を流して喜んでくれたよ。ただ、あいつダンナがいたんだ。俺はてっきり独身だと思ってた」
「そうなのか、珠代ちゃん結婚してたんだ。それじゃあどうしようもないじゃないか」
「だけど、俺、珠代を諦めきれない。やれるだけやってみるよ」
 武はそう言うとカレーパンの袋をくしゃくしゃにして、良夫の弁当箱に入れると現場に戻って行った。やれるだけって、何をやるんだよ。良夫は武の後ろ姿につぶやいた。
 最近は現場が終わるのは六時だが、良夫は伝票の整理や業者との段取りなどを任されているので、寄り道しないでも家に帰ると十時過ぎることもよくあった。子供たちはもちろん寝ているが、由紀子も疲れているのか寝ていることがある。キッチンのテーブルに良夫の分の夕食が置いてあるので、それを食べながら、あさみにメールをする。
(今、帰って来たよ。今日は疲れた。あさみは? 忙しかったの?)
 いつの間にか、あさみと呼び捨てになっていた。
(お疲れさま。遅くまで大変だね。私は今日はヒマだったの)
 良夫はあさみからの、お疲れさまのメールを見るとほっとする。それと同時に、あの初めて会った夜の甘いリンゴの香りと、どことなく人を安心させるような笑顔を思い出していた。あさみは子供はいないと言っていたっけ。夫婦ふたりなら静かなんだろうな。良夫の家が静かなのは、みんなが寝静まった夜だけだ。あさみはどんな家に住んでいるのだろう。ダンナはどんな男だろう。ふたりきりでどんな生活をしているのだろう。セックスはしているんだろうか?そういえば由紀子としたのはいつだったろう。一番下の子が生まれてからはしていない。もう二年以上になる。たまに由紀子を誘っても、「疲れてるの」と断られることが続いたので、そのうち誘うのもやめてしまった。けれど、良夫に性欲がなくなったわけではない。あの日、あさみに声をかけたのは性欲からだったんだろうか。
(ねえ、あさみはダンナさんとエッチしてるの?)
 良夫は思い切って聞いてみた。
(しないよ。だって、ダンナは兄弟みたいなもんなんだもん。近親相姦はダメでしょ)
 兄弟か、確かにそれは言えてるな。良夫はうんうんとうなずきながら、(最近、
エッチした?)と送ってみた。
(そうね、最近はしてないかな。あなたは? 奥さんとしてるの?)
(いや、まったくしてない。あさみはしたくなったりしないの?)
(そりゃあ、そういうときもあるけど……)
(そういうときはどうするの? 誰か他の人とするの? 不倫とかしたことある?)
 良夫は調子に乗ってメールを打ち続ける。
(不倫ね、なくはないかな)
 あさみもすぐに返してくる。
(どんな人としてたの? 今も不倫してるの?)
(それはないしょ。あなたは? 付き合ってる人いるの?)
(いないよ。そんなことするヒマなんてないよ。今は仕事が忙しいし、それに俺って真面目なんだ)
(あら、そんな真面目な人がナンパ? ほんとはいつもああやって女の人に声をかけてるんじゃないの?)
(違うよ、ナンパなんて初めてだったんだ。なんかあさみ、すごくいい匂いがしたんだ。それに可愛かったし。ほんとだよ) 
 そのあとしばらく待ったがあさみからの返事はなかった。今夜のメールはこ
れでおしまいかとつぶやいていて風呂に入った。
 翌日の昼休みも、夕べの続きがしたくて、(ねえ、どんな体位が好き?)と送  
ってみた。けれど返事はなかった。そりゃあそうだな、真昼間にする話じゃな
いよな。さすがに仕事中にメールをチエックするわけにもいかず、携帯をカバ
ンに突っ込むと現場に戻った。
 今の良夫の楽しみは、夜家族が寝静まってからのあさみとのメールのやりと
りだ。良夫があさみについて知っていることと言えば、結婚していて、歳は四
十一で子供はいない。それだけだ。あさみって名前だって偽名かも知れない。
まあ、あさみにしたって良夫について知っていることは同じようなものだ。ど
うしてあさみは自分とのメールに付き合っているんだろう。良夫はあの夜見た
あさみの姿を思い出していた。少し胸の開いた黒いTシャツに白のジャケット、
水玉のフレアースカートをはいていたっけ。中肉中背の体にセミロングの髪が
似合っていた。あさみの中にも自分と同じような思いがあったのかと思う。同
じような思い? それはどんな思いなんだ。性欲か? いやそれだけじゃない。
自分は性欲だけであさみに声をかけたわけじゃない。良夫はこの間テレビでシ
ンクロニシティーとか、オーラソーマとかをやっていたのを思い出した。この
世には偶然なんてなくて、全ては必然なんだと。出会う人間には何がしかの意
味があると。なら自分とあさみが出会ったことにどんな意味があるんだろう。
 今夜は十時前には家に帰ってきた。子供たちは寝ていたが由紀子は起きてい
た。
「あら、お帰り。ごはん食べるでしょ」
「ああ」
 由紀子はレンジで温めたおかずを良夫の前に置いて、ごはんをよそうと、子
供たちの寝ている部屋に入って行った。由紀子とはセックスもないが会話もな
い。それなら二人の間に何があるのか。子供……たぶんそれしかない。良夫が
夕飯を食べ始めたとき、あさみからメールがきた。やっときたことにほっとし
た。携帯を開けるときは何が書いてあるのか、手紙の封を切るときのようなド
キドキ感が心地いい。もっとも手紙なんて何年ももらってないが。
(正上位かな。あれが一番一体感があるんだもん)
 良夫が昼に送ったメールの返事だ。目に飛び込んできた文字に驚いたけれど
あんな質問に答えてくれたことがうれしくなって、
(他には? どんなのが好き?)
 と、良夫は送信した。送信ボタンを押しながらあさみの裸を想像した。俺っ
て何考えてんだと恥ずかしくなってきた。
(え〜、他には? そんなの恥ずかしいからないしょ)
 顔が赤くなった顔文字付きのメールが可愛かった。良夫は今までに何度も送
ろうと思ったが、送れなかったメールを送る決心をした。
(会いたい、会ってくれる?)
 そう書いたまでは良かったが、なかなか送信ボタンが押せない。これを送っ
たが最後、もうあさみからメールはこないような気がした。押そうか押すまい
か、さんざん迷ったあげく、良夫は親指に力をこめてエイヤっと押した。メー
ルというのは電話と違って即答がない。返事が返ってくるまでの時間、相手の
気持ちを勝手に推し量ってあれこれ考えてしまう。送信ボタンを押した瞬間か
ら期待と不安の入り混じった時間を過ごさなければならない。
 あさみからの返事はなかなかこない。やっぱり会いたいなんて言わなきゃよ
かったかな。良夫は夕飯も半分食べたままで、じっと携帯を見つめていた。あ
さみは最初から会う気なんてなかったんだよな。そりゃあそうだ。見ず知らず
の男にいきなり会おうって言われて、はい、なんて言うやつはいないよな。だ
いたい会うってことはそういうことなわけだし。自分とのメールは暇つぶしに
過ぎないんだよな。けっこうきわどいメールにも乗ってくれてたから、もしか
したらと思ったんだけど。良夫は声に出さずに愚痴っていた。そのときメール
が来た。
(いいよ)
 それだけ書いてあった。いいよ? ほんとかよ。
(ほんとに? ほんとに会ってくれるの?)
 良夫はビックリマークとハテナマークとバンザイの顔文字を入れて送信した。

 良夫は待ち合わせの喫茶店に入ろうかどうしようか迷っていた。約束の時間
より三十分も早く来てしまった。だいたいあさみが来るかどうかさえも怪しい。
来るか来ないか良夫の中では四分六なのだ。金曜日の夜七時半、駅前は飲みに
繰り出したサラリーマンやOLで賑やかだ。
 思い切って店のドアを押した。「いらっしゃいませ」高校生のバイトかと思う
ウエイトレスが笑顔で寄ってきた。「おひとりさまですか」と聞かれ「いや、そ
の、後でもうひとり」と言って少しドキドキした。もし来なかったら結局ひと
りということになるではないか。良夫は待ちぼうけを食らわされた自分を想像
した。こちらへどうぞと言われて一番奥の席に案内されたので入って来る客が
見えるようにドアの方に向かって座った。アイスコーヒーを頼むと、良夫はド
アに目をやりながら「来るのかよ」とつぶやいた。
 アイスコーヒーを飲みながら、前に武が出会い系で知り合った相手と待ち合
わせしてすっぽかされたと言う話を思い出した。良夫は出会い系にアクセスし
たことはないが、これもそれと変わらないようなもんかな、などと自嘲気味に
笑った。あの後あさみとメールで待ち合わせの場所や時間のやり取りをした。
良夫の仕事の都合で、金曜の八時という遅い時間になってしまったが、あさみ
は大丈夫だという。あさみは家にどんな言い訳をして出て来るのだろう。それ
よりホントに来るのだろうか。メールの返事を待っているときのような、いや
それ以上に良夫の鼓動は早くなっていた。あのとき一瞬しか見なかった自分の
顔をあさみは覚えているのだろうか。良夫ですら毎日メールをするうちに、空
想の中であさみの顔を自分の好みの顔にしているような気がする。
 そのとき、店の中の時計から八時を知らせる音楽が流れて来た。良夫が時計
を見たのと同時にドアが開き、女が入って来た。あさみだ。空想のあさみとは
少し違ったが、あのとき見たあさみだ。あさみは店内をきょろきょろしている。
こっちを見たとき、良夫は手を上げた。それを見つけたあさみは、あっという
顔をしてこっちに向かって来た。
「こんばんは」
 あさみは軽く頭を下げると、向かいのイスに腰を下ろした。
「あ、どうも」
 良夫の声がひっくり返った。あさみは微笑みながら「待った?」と言い、「出
ましょうか」と言ってイスから立ち上がった。良夫は「えっ」と言いながらも、
あさみにつられて立ち上がった。あさみは水を持って来たウエイトレスに「ご
めんなさい、出ますから」と言って出口に向かった。良夫はレジで自分の分の
勘定を払うと、あさみと一緒に喫茶店を出た。
「お茶、飲まなくても良かったの?」
 あさみと並んで歩きながら聞いた。
「うん、だってあんまり時間ないでしょ」
「あっ、そうなんだ。そうだよね。何時に帰らないといけないの?」
「十一時には帰らないと」
「そっか、そうだよね、あさみは、あさみって呼んでいいよね。人妻だもんね」
 良夫はずんずん歩くあさみに遅れないようにくっ付いて歩いた。
「ここから少し歩いた路地裏にあるホテルでいい?」
 あんまりあっさりと言うあさみに、良夫は驚いて立ち止った。振り返ったあ
さみは「だって、そういうことだよね?」と念を押すように言った。良夫は思
わずうなずいた。うなずきながらあさみの後を付いて行った。
 いきなりの展開に、良夫は驚いていた。そりゃあ確かにそういうことだけど、
その前に、お茶を飲んで話をするとか、どこかで一杯やってから行くとか、前
フリってもんが必要じゃないのか。それともあさみはいつもこんなことをして
いるのか。良夫はだんだん不安になってきた。ホテルに入ったとたん、怖いお
兄さんが現れて、金を巻き上げられるなんてことになるかも知れない。それと
も、あさみはこういうことを商売にしているのかも知れない。相場はいくらな
んだ。良夫の頭の中は混乱してきた。やめておくか、今なら間に合う。どうす
るか。そんなことを考えているうちにホテルに着いた。
「いいよね、ここで」と言うあさみに、良夫は催眠術にかかったようにうなず
いていた。
 部屋は思ったよりシンプルだった。良夫はこんなところに来たのは久しぶり
だったのと、あさみのことがよく分からないのとで緊張していた。ソファーに
座って固まっている良夫の肩に、あさみはやさしく手を置いて、「大丈夫?」と
言った。
「あさみは、その、慣れてるみたいだね」
 良夫の声が上ずっている。
「やだ、慣れてなんていないわよ。ドキドキしてるわ」
 微笑んだあさみの顔に緊張感は感じられなかった。
「俺、こんなとこに来るのも、そういうことも久しぶりなんだ。だからなんか
緊張しちゃって。あさみは落ち着いてるよね。ここにはよく来るの?」
「来ないわよ。ホントに私もドキドキしてるのよ。ただ、メールのやりとりし
てて、あなたっていい人なんだろうなって思ったの」
「でも、その、いきなりこんなとこに来るとは思わなかった」
「やだ、だってあんなメールのやりとりしてるのよ。暗黙の了解じゃない」
 あさみの余裕はどこから来るんだろう。良夫は改めてあさみの顔を見つめた。
特別に美人というわけじゃないけど、愛嬌のある顔をしている。見た目は良夫
より年下に見えるのにこの余裕はやっぱり年上なんだ。いや年は関係ないな、
経験の差かな。
「俺たちってお互いのことほとんど知らないよね」
「そう? わたしは知ってるわよ。あなたは三十八で塗装の仕事をしていて、
子供が三人。最近あんまりエッチしてない。だから私とここにいる」
 ねっ? と言う顔をしてあさみは首をかしげた。確かにそうだ、そうなんだ
けれどもそれだけじゃなくて、なんかもっとこう……。
「私ね、別にいつもこういうことしてる訳じゃないよ。いつもどころか今が初
めて。知らない人とこんなとこに来たのは」
 あさみは冷蔵庫からビールを出して良夫に渡した。
「私、結婚して十六年になるの。四つ年上のダンナとは社内恋愛だったの。や
さしくていい人だよ。子供は出来なかったんだけど、そういう人生も有りかな
って思ってた。エッチはもう三年くらいしてないかな。もともとダンナは淡白
な方だし、私もパートを始めてそれなりに充実してたから特に気にはならなか
ったし。でも最近、なんかこのまま終わっちゃうのかなって思うようになった
の。今、私四十一でしょ。下手したらこの後の人生、四十年はあるじゃない。
でも、そのうち女として見てもらえるのってそんなに長くはないなって」
「それで、誰かとエッチしたかった?」
「う〜ん、女としての自分を確かめたかったのかな」
「でも、あさみは不倫してたって言ってたじゃん」
「あれは嘘、っていうか願望かな。不倫っていう言葉には甘い香りや危険な匂
いがするじゃない。不倫をしている自分を想像するとぞくぞくするの。でも私
はそんなことする勇気もないし、相手もいない。そんなときあなたに声をかけ
られたの。あなたとメールするうちに、あなたの中にも私と同じような何かを
感じたの」
「俺の中に? 何?」
「よくわかんないけど……。なんだか会ってみたくなって」
「いきなりこれでいいの?」
「ここから始まるって思うの」
「必然なんだ」
 良夫はあさみを抱き寄せて、長い長いキスをした。あさみの髪から甘いリン
ゴの香りがした。その匂いが良夫の欲情を掻き立てた。そのあとはもう無我夢
中だった。
 終わった後、あさみは潤んだ目で良夫を見ながら「ステキだったわ」と言っ
た。良夫は「あさみもすごく良かったよ」と言って髪を撫でた。良夫の中に久
しぶりの満足感が広がった。あさみもきっとそうだと思う。
「また会える?」良夫の問いにあさみは小さく笑った。良夫は自分の人生の中
に、突然宇宙から降って来た石が投げ込まれたような気がした。
 あさみとは駅前で別れた。別れ際、良夫は「またメールするね」と言って携
帯を持った右手を上げた。あさみは笑ってうなずいた。帰り道、良夫の足取り
は軽かった。あさみは女としての自分を確かめたかったと言ったが、それは良
夫も同じだった。
「俺はまだまだイケル」
 良夫は歩きながらガッツポーズをした。握り締めたこぶしを見ながら、自分
にとっての自信はここから来るんだろうかと思った。あさみが良夫に言ったこ
とが真実かどうかなんてどうでもいい、良夫の腕の中であさみが歓びの声を上
げた、それは事実だ。良夫は大きく息を吐き出して空を仰いだ。

 良夫は翌朝、目覚ましが鳴る前に起きた。今まで、ただ惰性で続いていたと
思っていた毎日が、昨日あさみを抱いたことによって意味のあるものに変わっ
たような気がした。朝食の支度をしている由紀子の顔を見たときには、さすが
に心臓がチクッとしたけど、それで自分に活力が出て、この家の経済が潤うの
なら、それはそれで良しとしてもいいだろう。などと勝手なことを考えて家を
出た。
 事務所に着くといきなり親方に呼ばれた。今日は現場にひと足先に行って指
示していなければいけない武がまだ来ていないという。連絡が取れないので代
わりに良夫が行くことになった。予定外の忙しさで、昼休みにあさみにしよう
と思っていたメールも出来なかった。それにしても武が無断欠勤なんてめずら
しい。仕事帰りに携帯に電話をしてみたがつながらなかった。良夫は電車の中
であさみにメールをした。
(調子はどう? 俺はメチャ忙しかったよ。でも昨日のあさみを思い出すと元
 気が出るよ)
 Vサイン付きの顔文字と一緒に送信ボタンを押した。今日はパチンコにもコ
ンビニにも寄り道しないで帰った。久しぶりに早く帰って来た良夫に、子供た
ちは喜んでまとわりついた。
「良かったわね、今夜はパパと一緒にお風呂に入れるわね」
 良夫は由紀子に三人の子供の入浴を押し付けられた。由紀子は来年、一番下
の子供が保育園に入ったらパートに出るという。早くお金を貯めてマンション
を買うのが夢なのだ。由紀子が仕事を始めたら良夫の土日は完全に家事手伝い
で終わるだろう。平日も何かと用を言いつけられるのだろう。そんなことを考
えていると体から力が抜けていった。
 由紀子が子供たちを寝かし付けに行ったので、良夫は携帯を取り出した。あ
さみからのメールは来ていない。あさみも今日は忙しかったのかと思い、(仕事
大変だね)と送った。
「今夜はパパと遊んだせいかすぐに寝たわ」
 由紀子がリビングに入ってきて、最近の子供たちのことを、なんやかやと話
し始めた。良夫は適当にうなずきながら、あさみのことを思っていた。
 良夫は寝る前にもう一度携帯を見た。けれどあさみからのメールは来ていな
かった。
 翌日も武は無断欠勤をした。帰りに見てきてくれと親方に言われたので、良
夫は仕事がひけると武のアパートに向かった。武のことも気になったが、あさ
みからのメールがないことの方が気がかりだった。昨日は結局一度も返事がな
かったし、今日の昼に送ったメールの返事もない。何かあったのだろうか。
 武のアパートは、良夫がいつも降りる駅より一駅向こうにある。築三十年は
経っているであろう木造のアパートの階段は一段上るごとにミシミシと音をた
てる。2Aと書いてある武の部屋をノックした。返事がない。ドアをガシャガ
シャやってみたが鍵が掛かっている。留守なのか。管理人がいるようなアパー
トではないし、武のことだから隣近所との付き合いもないだろう。良夫は珠代
の店に行ってみることにした。珠代なら何か知っているかも知れない。
 珠代の店はのれんが出ていて、ほのかに煮物の匂いが漂っていた。良夫はや
ってるなと呟いて店に入った。
「いらっしゃい」
 威勢のいい声は珠代じゃなかった。一瞬、店を間違えたのかと思った。六十
過ぎくらいだろうか、かっぷくのいいおばさんに、どうぞどうぞと言われて中
に入った。良夫は突っ立ったまま「珠代さんは?」と聞いた。
「珠代かい? まったくあの子にも困ったもんだよ。まあ座んなよ」
 他に客がいないところはいつも通りだ。良夫はカウンターに腰かけた。
「ビールでいいかい?」
 おばさんは冷蔵庫からビールを出して、良夫の前にポンと置いた。酌をして
くれそうもないので、自分で栓を抜いて自分で注いだ。冷たいビールが体中に
染みわたった。酒の強くない良夫はコップ一杯で赤くなった。
「男と駆け落ちしたんだよ」
 おばさんは肉じゃがを良夫の前に置きながら言った。
「えっ、珠代ちゃんが?」
「まったく散々世話になっておきながら不義理なことするもんだね。昨日、珠
代から電話があってさ、かあさんすみません、私を探さないでください。って
言うんだよ。あっ、わたしはこの店の持ち主なんだけどね。ここの他にも店を
やってるもんだから、ここは珠代に任せていたのさ。それがいきなり店をほっ
ぽらかして男とどっかへ行っちまうんだから。昨日なんて珠代の亭主も怒鳴り
込んで来て大変だったんだから」
 珠代の相手は武だ。武は珠代と駆け落ちしたんだ。良夫は驚くより先に、武
ならやりかねないと思った。それにしてもひとことくらい自分に言ってくれて
もよさそうなもんなのに。おばさんは珠代のことを色々言いながら「困ったも
んだ」を連発していた。
 良夫はほとんど飲んでいないビールと、まったく手をつけていない肉じゃが
の代金を払って店を出た。駅に向かいながら携帯を見たが、あさみからのメー
ルはきていない。
 翌日、良夫は出勤すると親方に武のことを話した。親方は「ふざけるな」と
言って壁を蹴っ飛ばしていた。とばっちりは他の従業員たちにもかかってきた。
ただでさえ人手が足りないのに、この忙しい時期に武がいなくなったことで段
取りが狂う。武の抜けた穴を埋めるのに余分に働かなくてはならない。みんな
ブツブツ言いながら残業していた。
 良夫が汗だくになって家に帰り着いたのは十一時を過ぎていた。どこかに寄
り道する必要もない。みんな寝静まっていて部屋は真っ暗だった。静かにシャ
ワーを浴びて自分の部屋で寝転んだ。すぐに眠気が襲ってきたけど、カバンか
ら携帯を取り出した。今日もあさみからメールはきていない。さすがに不安に
なってきた。確かに今までもあさみの方から先にメールがくることはほとんど
なかった。でも良夫からのメールの返事は必ず返してくれた。それがここ三日
は、良夫がメールを送っても返事が返ってこない。
 よく考えたら、良夫はあさみの何を知っているんだろう。どこに住んでいる
のかも聞いていない。名字も知らない。あさみっていう名前だって本当かどう
か分からない。歳だって嘘を言ったかもしれない。急に良夫の中であさみの存
在があやふやになってきた。今まで携帯という安易なものに安心していた。携
帯さえあれば、いつでもどこでも連絡が付くものと思い込んでいた。それは裏
を返せば携帯がなくなったらどうしようもないということではないか。まさか、
連絡が取れなくなるとは思ってもいなかったので、あさみの詳しいことは何も
聞いていなかった。このままあさみから連絡がなかったら……。
 翌日は寝不足で仕事に行った。相変わらず忙しかったが、良夫は時間を見つ
けてはあさみにメールをした。休憩の度に携帯を見るが返事はない。メールと
いうのは不思議なもので、送信ボタンを押した瞬間から返事がくるまでずっと
気にかかるものだ。たとえたわいもないようなことでも、自分が送った言葉に
対して何がしかの反応を期待する。それはまるで自分の言葉に自分で縛り付け
られているかのような圧迫感を感じさせる。
 どうして急にあさみからのメールがこなくなったのか。あの日以来、良夫が
どんなにメールを送っても返事がない。あさみは本当に一回きりのつもりだっ
たのだろうか。ただ一回セックスがしたかっただけなんだろうか。それは良夫
じゃなくても良かったんだろうか。誰でも良かったんだろうか。あさみは目的
を達成したから、もう自分には用がなくなったんだろうか。じゃあ、あのとき
「ここから始まる」と言ったあさみの言葉は何だったのか。良夫は二人の関係
がここから始まるのだと受け取った。そうじゃなかったのか。あれはあさみだ
けの何かが始まるという意味だったのか。良夫は悶々と考えていた。でもそれ
を確かめる術はどこにもない。それでも良夫は毎日あさみにメールを送った。
一度手に入ったと思ったものがいきなりなくなると、それに対する執着も倍に
なる。「送信完了」と出るということは、ちゃんと届いているということだ。あ
さみは見ているはずだ。いつか返事があるかもしれない。良夫はまだあさみと
繋がっているという自負があった。なのにあさみからのメールがなくなってか
ら十日目、良夫が送ったメールが「送信完了しませんでした」というメッセー
ジと共に戻ってきた。メルアド変えたんだと思った。どうしてだ。終わりなら
終わりで、ひとことメールをくれたらそれでいいのに。いやなものを無理強い
したりしないのに。良夫はあさみに電話をしてみることにした。なぜか今まで
電話が出来なかった。即答で返事が返ってくることが怖くなっていた。思い切
ってあさみの番号を押した。聞こえてきたのは「この番号は現在使われており
ません」という機械的な声だった。
「携帯変えたんだ……」
 良夫は携帯を見つめたまま呆然とした。もうこれであさみを知る手がかりは
何もない。全てが自分のひとり相撲だったんだ。あさみのことが好きだった?
いやまだそこまでの感情もなかった。「ここから始まる」と言ったあさみの言葉
にすがっていた。仕事帰りに寄り道をするしかない自分が、あさみによって変
わるかもしれないと思った。

 良夫の毎日は忙しく続いていた。武の後釜も入り、なんとかたいして残業を
しなくても済むようになった。良夫は相変わらず早く終わったときはパチンコ
やコンビニで時間を潰していた。あさみのこともだんだん消化されていった。
今だに武の居場所は分からないが、そのうち戻ってくるような気がした。
「なあ、久しぶりにしないか」
 子供たちが寝静まった夜、良夫は由紀子を誘った。
「えっ、何それ。今更そんなこと。疲れてるんだから寝るわ」
 素っ気なく断る由紀子を良夫は強引に押し倒した。由紀子とは今までしたこ
とがないというくらい激しいセックスをした。由紀子があんなに声を上げたの
は初めてだった。
「どうしたの?」
 そう言う由紀子の顔は上気して満足気だった。そんな由紀子とは反対に、良
夫には後悔と虚しさの混じったなんともいえない感覚が残った。

 三ヵ月後、久しぶりにパチンコで儲かってご機嫌で家に帰った良夫に、由紀
子は待っていたかのように寄って来た。そして耳元でうれしそうに囁いた。
「出来たの」

                                 了
posted by いろり at 21:03| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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